父徳太郎は、このような惣治郎の姿にほだされ明治 31(1898)年春のある日、惣治郎に「惣や、お前がそれほど学問がしたいのなら、師範の講習科に行ってみたらどうか」と勉学の許しを与えました。21歳の惣治郎は、小躍りして喜びました。
惣治郎が千葉県師範学校の講習科(6ヵ月)へ入学する前日、耕し残した田の手入れをしていたところへ通りかかった村の古老が、「千葉に行くのを取り止めにしたのか」と聞きました。すると、「明日は千葉に行きますが、これだけ残っているので耕すのです」と答えたという、責任感の強い性格を物語るエピソードが残されています。
講習科を終えた惣治郎は、郷里の須賀尋常小学校の教員になりました。しかし、惣治郎はより一層の向学心を燃やし、明治33 (1900)年2月東京物理学校に入学しました。そして36年2月同校数学科を首席で卒業し、同年5月に山形県立山形中学校教諭心得として赴任しました。
惣治郎が、父の意に背いて教育者となった動機は、「正義を天下に行わんがため」「天下の英才を得てこれを教育せんがため」であったと言っています。
創立者紹介
千葉経済大学創立者
佐久間惣治郎
創立者佐久間惣治郎の教育理念
千葉経済学園は、2023年に創立90周年を迎えました。本学創立者である佐久間惣治郎は、
「本校の教育」で学園の目指す教育について思いを述べています。
ここでは、惣治郎の生い立ちとともに、惣治郎の掲げた教育理念をお伝えします。
1.向学心—生いたち
学園の創立者佐久間惣治郎は、明治10(1877)年千葉県匝瑳郡須賀村高(現八日市場市)の農家佐久間徳太郎の長男として生まれました。
明治10年といえば、明治維新最後の士族の反乱といわれる、西郷隆盛による西南戦争が起こった年であり、わが国最初の総合大学東京大学か常置され、銀座レンガ街が完成した年でもあります。
惣治郎は、幼少の頃から学問好きで、進取の気性に富んでいました。小学校のころから中学校への進学を望み、父に願いましたが許されませんでした。しかし、向学の志は衰えず、昼は農業に従事し、夜は勉学に励みました。
村の小学校長林宮次郎氏などから漢籍の講釈を聞いたり、書物を借りて読みふけりました。また維新慷慨家列伝等を読んで、感憤したといわれます。教育者たらんとする志は、こうした間に育まれたといえます。
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2.教師としての歩み
佐久間惣治郎が山形中学校に赴任した当時は、欧米の民主主義思想が流入するとともに社会主義思想・労働運動も急速に広まり、その波紋は青少年層に及んで、中等教育の現場でも、生徒のストライキが各地で、勃発していました。
山形中学校でも、生徒のストライキが起こり、校風が非常に乱れていたといいます。しかし、校長・教員には自主的に解決する能力はなく、責任の全てを生徒に転嫁し首謀者の退学処分で済ませるというのが実情でした。
惣治郎は、何とかして前途ある若者をこの悲劇から救わなくてはならないという、教師としての聖なる使命を痛感しました。そして赴任3年目の明治39(1906)年、問題学級の監督(担任)になったとき、自分の信条である「自彊不息(じきょうやまず)=絶えず自分で努力し励む」の精神を生徒にもたせようと、クラス全員で「自彊会」という組織をつくりました。
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この組織は、惣治郎が「団体的修養法」と呼んでいるように、教師が一方的に生徒を指導するのではなく、生徒が同志として互いに知識•人格を磨きあい、それに教師が助言指導を与えるところに特色がありました。
生徒は、交替制で当番幹事をつとめて団体修養の責任者となり、その反省や実践状況を日新録に記録し、それを生徒同志や教師•生徒間で討論し善導しあうというものです。
自彊会活動の実践にあたっては、「以至誠一貫」「以至行終始」「補以諸家長」を修養の綱領として掲げました。この組織の活動で全校一の問題学級は、たちまち全校一の模範学級となり、自彊会とその活動は山形中学校を退職したあとも続いたと、晩年の惣治郎は語っています。
こうして大正3 (1914)年になり、惣治郎が山形中学校を去る原因となる事件が起こりました。それは11月に発生した大規模な教頭排斥ストライキです。
校長はじめ一同は、その収拾に困惑しました。このとき辞表を懐に異常な決意をもって事態の収拾にあたり、 みごとに解決したのが怒治郎でした。この働きによって惣治郎は、父兄生徒の信望を集めましたが、反面同僚の嫉妬中傷を招き、校長から退職勧告を受けることになったのです。元山形県商工会議所会頭矢野善助氏は、4年に在学していた当時のことを次のように述べています。
「上級生になって先生から数学を教わった。教授振りは中々上手であったが、それはともかく、生徒の心情をよくつかみ、その訓練振りはそれにも増して中々堂に入ったものであった。たまたま4年の折に、山形中名物のストライキをやって時の教頭を排斥した。その時先生は、真に生徒を思い学校を憂えるの熱情に燃え、全力を傾けてストライキを中止させようとした。紫のふくさに辞表を包んでそれを肌身離さずに、生徒を文字通り懇々と教え諭したのであった。先生の熱情にほだされて、遂にストライキは中止された。苦いあと味を残さない明朗な解決には、今でもありがたかったと思いだしている。」(『佐久間惣治郎先生追想録』)
山形中学校時代の教え子である宇留野勝弥氏(医師) は、同氏がまとめた『あゝ佐久間先生』の中で、佐久間惣治郎の山形中学校時代の面影について次のように述べています。
「佐久間先生は、当時お年が三十歳台の働き盛りであったが、背は低く、顔浅黒く、血色よく、あごひげをたくわえて居られ、数学の先生というより儒学者とも思える風貌をそなえられ、その説くところ常に孔子、孟子の道であったので、誰いうとなく、我々は佐久間象山と呼んでいた。勿論自彊会なるものが存在し、先生発案の反省録ともいうべき曰新録を書かされた記憶がある。私は常に組長をやらされていたので、生徒と先生との間の橋渡しをやらされていたものであった。……」
大正6 (1917)年1月に辞職して上京した惣治郎は、私立赤坂中学校に数学の教師として励務しました。在職すること4年、その間に柔道の創始者であり、永年東京高等師範学校長を勤め、著名な教育者であった嘉納治五郎氏(1860〜1938)の中等教育会に参加し、徳育や数学教育改善の研修に情熱を傾けました。
大正10 (1921)年4月から東京淀橋の私立精華高等女学校に勤務し、関東大震災の起きた、大正12(1923)年11 月からは、群馬県立前橋中学校に勤め、翌13年6月岡田良平文部大臣に「徳育刷新並びに実行方法について」の建白書を提出しました。
大正15(1926)年4月長野県立木曾中学校に教頭として赴任しましたが、昭和3 (1928)年9月帰郷の希望を持ち、嘉納治治五郎氏の推薦などもあって、千葉県立大多喜高等女学校長として転任しました。同校は、町立実科女学校から県立高等女学校に昇格したばかりで、惣治郎は初代の校長でした。
3.公立校長勇退—恐れ多くも上奏
佐久間惣治郎が大多喜高等女学校長に赴住した当時、千葉県教育界の人事をみると、中等学校の校長はほとんど東京高師系・広島高師系・束京帝国大学系の3大学閥の出身者で占められていました。
惣治郎はどの学閥にも属さず、かつ校長として新参者でありましたが、校長会議などで自らの信念によ積極的な発言を行っていたので、煙たがられ憎まれていました。こうして在職2年半を経過した昭和6 (1931)年3 月、県学務部長から退職の理由を明示されないまま勇退を求められました。
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惣治郎は、自分より年長者が多数おり、何ら落度もないとして辞表の提出を断りましたが、さまざまないきさつから退職することになりました。しかし、どうにも納得できず人の奨めもあって、上奏することを決心しました。
請願令による上奏は、昭和6年4月12日付けの束京朝日新聞房総版に「校長退職を強要され 恐れ多くも上奏す 県立大多喜高女の佐久間氏が 県教育界空前の事」という見出しで大きく報じられました。
4.理想の教育をめざして
大多喜高等女学校長を退職しても、惣治郎の教育に対する情熱は衰えません。そして自分のめざす教育を実現させるため私学の創立を考えました。
昭和23 (1948)年惣治郎が「本校の教育」に書かれた次の文章に、そのころ抱懐していた教育理念がよく表現されています。
本校の教育
私が教師になってから、一番始めに心を傷めたことは、学校に何か不祥事が起った場合に責任者としては生徒の一、二若しくは五、六の者か処罰されて県庁に報告され、教育者は責任をとらないという事実であった。よし生徒に過失があったとしても、生徒はまだ教育される立場であるもので、何が善であり、何が悪であるかの判断も未熟である。それならばこそ教育を必要とするのである。
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殊に破廉恥行為は別として、学校ストライキ等の首謀者と目されるものは、級長や校友会の役員をやっている者とか優秀な生徒がかつがれる事が多い。それを退学して何でその生徒がよくなるものか。親御さんは驚きの余り倒れ、本人はすっかりぐれてしまい、あたら英才を闇におとす結果となることが往々ある。又、悪い性癖の生徒にしても、悪いのを善くするのが教育なので、一度や二度の過失で放校するのは教育の本旨ではない。当時最大多数の最大幸福のために一部を犠牲にするのだということが、正当のことのようにいわれたが、それは私には賛成できない。私は退学者を出さないことを主義としてきた。私は、孟子もいっている通り、至誠を以てすれば動かないものはない、こっちがまごころを以て諭せば必ず生徒は動いて呉れる。こういう考えを持ち、又その通り実行してきた。私の「至誠を以て一貫する」というのは、この信念を表わしたのである。私は一人も棄つべき者はないという教育愛に燃えた教育を本校の方針としてやって行きたいと考える。
第二に痛感したことは、智育の偏重、道徳教育の軽視である。智育も本当に重んじているのならよいが、いわゆる智識の切売であり、自分等が教ったことのおうむ返しが多い。大学(高師や専門校出も)を出た若い修身の教師が授業をしているのを見たが、大学の倫理学の講義をそのまま引きうつしにして教えている。それでは生徒に分りっこはない。私は数学の教師であったけれど修身教育に関心を持たざるを得なかったのは、こうゆう場面 を見せつけられたからである。私は修身の教育は空理空論でなく実践躬行を中心にして人格を陶冶すべきことを強調して来た。大学を出ても道義の水準が低いのが一頃の現象であった。立身出世主義で道義を忘れた教育であったために、日本が今日の悲局になり至ったとも云えると思う。私はこういう考えで夙に徳育の刷新、修身教育の改善を主張して来たのであるが、中頃から更に職業教育の重要性を真剣に考えるようになった。私の敬服して いる言葉に、渋沢子爵の「片手に論語、片手に算盤」という言葉がある。
人間は、論語だけで生きてゆかれないし、又算盤だけでは人間として不完全である。道義と云うものは人問の実生活の中で実現されて行くのである。生活を独立してやって行けないようなことで、幾ら倫理だ道徳だといったところでそれは頭の中だけの観念の遊戯で駄目である。そこで私は、片手に論語、片手に算盤が、教育の理想的な一つの形態だと考えるようになった。私が高等女学校を廃して女子商業学校を県下で始めて創めたのも、このような考えを端的に実行に移したのである。私は今後共こういう考えの上に徳性の陶冶を重じた教育を本校の特色として行きたいと考えている。
私が教育界に入って第三に感じたことは、学閥の弊である。教育界は一皮むけば、学閥の権力争いが、相当に激しいのに驚いた。公立学校の校長になる人は殆んどが 特定の官学出の人に限られていた。而も大校長と云われる人が教育のことを真面目に考えているかというと、そうではなく、自己の保身を第一としている人が多く、その多くは学閥の力によって其の目的を達しようとする。世間の人も、本当に地味に生徒とともに歩いている真面目な教育者よりも、地元に受けがよいとか物的施設を拡張したとかいうことで校長の品定めをする傾向が著しい。
学閥の力に頼るのだから、自分で苦心工夫して実力をつける、しっかりした教育上の主張を持つなどということはお留守にする。しかも早く校長になり、又なるベく短い期間で他に栄転したがる。そして自然権力と結びつく。こうした風潮が教育者の主流になっては、曰本の教育は決してよくはならない。私は色々の機会にこの点を警告をした。案の定、私はあちこちで馘の座に坐らされた。そして最後に大多喜高等女学校長を罷めされられたときに、本当に自分の理想の教育を行うには「どうしても自分の学校を興さなければならない」と考え、そして本校の前身たる当時廃校直前の寒川高等女学校を引受けたのである。権力に阿諛せず自主独往理想に向って敢然と道を切り拓いて行く、公立にみられる画一主義、形式主義の弊も自ら避けられると思う。教育の民主化の線に添って官尊民卑の考え方も改められて来た。今後十分私学の特質を生かすようにして行かねばならぬと思う。
まだ色々のことが頭に浮んで来るが、大体右の三つのことが、私が若い時分からの主張のうち比較的大きな事柄である。そしてこれは新しい学制の下でも十分生かされていってよいことだと考える。新学制には、曰本の教育界として研究すベき新しい問題が数多く提出されている。これまでの日本の教育の中から棄つべきものは棄て、改むべきものは改め、補うに諸家の長を以てする精神を以て大いに力を協せて勉強して行きたい。以上の考えに签づいて惣治郎は、昭和8 (1933)年当時 廃校直前の寒川高等女学校の経営を継承し、校長に就任しました。これが本学園のルーツです。
『創立20年史』で当時の理事江波戸博氏は、思い出を次のように書いています。
「………………朝薄暗いのに玄関が開いてモンぺ姿の.奥さんがせっせと水を運んで掃除をしている。常に校舎はきれいだ。雨の日も雪の日もその姿は消えた日がない。目頭が熱くなってふらふらと近づいて『おはよう』と言葉をかけてしまうことが時々ありました。そうすると奥さんは『先生であり小使であり雑役夫ですよ』と笑って、又せっせと掃除を始めるのであった。………」『千葉経済学園60年史 -写真でつづる学園のあゆみ-』より。
『佐久間惣治郎伝――教育の基本は「論語と算盤」』(佐々木久夫著・アートデイズ刊)出版のご案内
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